輝Rockコラム #29 五輪書に見る大会論~常の身~

こんばんは、DEAD OR ALIVE(以下DOA)プレイヤーの輝Rockです。
今回は、DOAの大会と野試合の差というか、思ったことがあったので少し書いてみようと思います。

「野試合と大会は別」という考え方は、実は正しくないのかもしれない

大会用の動き、いわゆる「大会モード」というのは確かにあると思います。
思い切った行動や一瞬の閃きなど、普段とは違った戦い方で短期決戦を制するというもの。

しかし、大会モードで相手に勝てたとして、果たして本当にそれでいいのでしょうか?
確かに大会では勝つことこそ目的だし、とても重要な事です。
勝てば官軍という言葉もあるように、大会では特に勝つことこそ絶対的な正義です。
しかし、よく考えてみると、自分が大会モードでプレイしているということは相手も大会モードになっている可能性も高いのではないでしょうか?
では、お互い大会モードの状態で戦って勝つというのは、結局相手のミスに期待したり依存して、たまたま勝ちを得ているだけではないのか?

普段の練習や対戦は「強くなるため=安定して勝つ(勝てる)ようになるため」にしているのに、それでは元も子もないのではないか?

ここで「普段の行動」と、「目的を求めてとる行動」は根本的に違うものなのか?違っていたとしてそれで良いのか?という小さい疑問が生まれました。

日常と非日常の境を無くすこと

よく武術の教えで用いられる表現ですが、武蔵の五輪書の一節にはこうあります。
「常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり」
ここだけ抜き出して解説しても誤解を生むかもしれないので五輪書の解説は省きます。

この言葉を自分なりにDOAに置き換えて考えてみると「普段と違う状態(平常心を欠く等)で戦うというのは、正しい戦い方とは言い難い。」と解釈できるのではないでしょうか。(あくまで私個人の解釈です。)

私はこれまで大会でコメントを求められた時に「いつもどおりプレイする」と言い続けてきましたが、奇しくもこの常の身という考え方に則っているのかもしれません。
まぁ私の場合は単純に、変に煽ったり調子づいた所で良い結果が出たことがないし、大会だからといって変に緊張したくないから、余計なことを考えないようにするための自己暗示の一種として「いつもどおりやる」と言い続けてきただけです。最近まで五輪書なんて読んだことも無かったし、単なる偶然の一致です。武蔵の「常の身」につなげる思考転換自体おこがましいこじつけであることも重々承知です。

しかしそうして過去の大会を振り返ると、たまたま緊張を緩和する考え方が理にかなっていて、相手が緊張や非日常にのまれて自滅してくれた場面もあったのかな?と振り返ってみて思うところもあります。

全てはその数フレームのために

本当の意味で大会を意識して練習するというのは「大会ではこうしようああしよう」ではなく、普段やっていることをそのまま出せるよう動作の練度を高めるということが重要であると言えそうです。
日々の1試合、一挙手一投足こそ、わずか数分の大会1試合に集約されていくのでしょう。
大会における一発勝負というのは、大舞台であればあるほど、武士が真剣で斬り合うそれと似た精神状態にあるのかもしれません。

一寸先は闇。
大げさかもしれませんが、対戦とはそういうものだと思っています。
だからこそ、後悔のないよう準備は万端にしたいものですね。

コラムカテゴリ: 
ニュース